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005 2004.07.01 エッセイ「あきらめましょうと別れて見たが」 日本たばこ総合研究所

 團伊玖磨先生の27冊の「パイプのけむり」は、今も私の混然とした書斎の前の棚の上に積み上げられている。私の人生でもっとも忙しかった時期と一緒に歩いてきたこの本の重みは、わたくしにとっては、札束を積み上げられるよりも素晴らしい宝の山だった。楽しかったときも、苦しかったときも、歓喜に飛び上がっていた時も、別れで悲しみに打ちひしがれた時も、この本はバイブルのように、いつも、手の届くところに置いておけば私に明日への道標と活力を与えてくれた宝だった。
 どの文章も大好きだが、特に初期の頃の文章は、体全体に震えが来るほどの懐かしさで一杯になる。
「どの文章ですか」と問われれば、即座に、20編や30編のタイトルを並べ立て、その一つ、一つの文章を賛美し、感嘆し、感涙にむせび、鏡舌になる。
 ふつうだったら饒舌過ぎたと自己嫌悪に落ちいるのですが、この「パイプのけむり」について語るときだけは、自己嫌悪に陥ることもなく「パイプのけむり」に回帰している自分を発見するのです。
團さんにとっては、旅のことも、動物のことも、植物のことも、釣りのことも、お天気のことも、食べ物のことも、科学者が一つ一つ論理を積み上げて、或る時は一流の研究者に聴き、指導を受け、山のような書籍を積み上げて納得がいくまで踏査し実験を試み興味を持った事は、全てが研究の対象だったように思う。それが、何とも私にとっては心地よく響き、一緒になってのめり込んでしまったのだ。
 「パイプのけむり」は、アサヒグラフ1964年6月5日、40歳から2000年10月13日号76歳まで、回数にして1,842回も続いた。私が29歳から63歳までの36年間、ご一緒したことになる。この月の16日1時1分14秒に新潟市の北方粟島付近の海底を震源とするマグニチュード7.5の地震が起きて大規模な災害により市内250ものビルが傾いたと報道されていた。印象に残っているのは、信濃川に完成したばかりの昭和大橋が崩落したことで海底地震につきものの津波が2.34メートルに達した。また、地下水の噴出により、海抜0地帯の市街の三分の一が浸水、86,000人が山形や秋田に避難、死者26人、負傷者447人と報道されていた。

 旭川に住む主婦、三浦綾子さんの「氷点」が朝日新聞社の1,000万円懸賞で入選。キリスト教の「原罪」をテーマに、妻の不倫、子供の死、継子いじめ等家庭で抱える問題を題材にして、同年12月9日から朝日新聞に連載される事になり翌年11月14日まで、世の人々の深い関心により出版され1年半で70万部が売れた、そして、テレビドラマや映画になり一世を風靡した。

 2月には、米国ハワイ州からやってきた米人ジェシー・クハウルワが関取高見山と四股名が決まり高砂部屋に入門話題になった。身長196センチ、体重126キロ、3月4日に新弟子検査に合格、9日には初土俵を踏んだ。私が初めて出した「MyOASYS2のすべて」【1983.7.1 千曲秀版社】の写真は、関取にお願いした。オリンピックがこの年から始まるため国内では高速道路や新幹線の工事が至る所で行われ国内全体が活気に満ちていた歌の世界では、都はるみ(15歳)がコロムビア全国歌謡コンクールで優勝した。「涙の連絡船」【関沢新一作詞、市川昭介作曲】、「アンコ椿は恋の花」【星野哲郎作詞/市川昭介作曲/レコード大賞新人賞】で鮮烈なデビューを飾った。この翌年、「コロムビア花のステージ」の美空ひばりの楽屋に「新人の都はるみです」と挨拶に行っていると、有田芳生が「歌屋 都はるみ」文春文庫に書いている。美空を目指したはるみの緊張した出会いであった。

 何と言っても白眉は、團伊玖磨さんと人との出会いと別れをテーマにした文章だ。もちろん、人の一生を著述されるわけだから、文章は、回想風に綴られていくわけだが、その経緯が形容できない哀歓を味あうこととなるりほろりとさせられたり、抱腹絶倒の物語となってしまうのである。團さんの人との出会いでは、どの方との出会いも興味つきないものがあるが、多くの「パイプのけむり」の文章から選ぶとしたら、私のもっとも好きなのは、作曲家の佐々木俊一さん(1907〜1957)との出会いと別れが、忘れられない一文なのだ。

 狭いのみ屋の空間には客の吐くたばこの紫煙が換気扇の排気でゆらゆらと揺れて、ちょっと、生臭く湿って生温かい焼き魚の匂いも立ち込めていて、油や酢や漬物などの混沌とした匂いの中で團さんは、一人緒子を舐めながら、その鎌倉駅前の飲み屋に立ち寄ったと話されていた。

【・・・・鎌倉駅前の呑み屋で一人酒を飲んでいた。…僕は、低い声で「無情の夢」を口ずさんでいた。暫くして、向こうの方にいた小父さんが突然立ち上がり、僕のそばへ来て、僕を見詰め、
 「君は、その歌を好きですか」
 と言った。
 「ええ、好きです、大変好きです、大好きですよ、節が良くて、良くてさ」
 「そうか、そうでしたか」
と言い
 「その 歌は、わしが作曲した」
と僕の手を固く握った。・・・・・・】
 これが、30歳そこそこの團青年、50歳そこそこの佐々木俊一さんとの初めての出会いだった。
 佐々木さんの作曲の経歴は、素晴らしいものがある。ビクターの新人のデビュー作、昭和7年の「涙の渡り鳥」は小林千代子が歌ってレコード界始まって以来のヒット曲になった。
 昭和8年の「島の娘」は蔑町の芸者勝太郎が歌って一世を風靡し、昭和10年「無情の夢」はイタリア帰りのクラシックの声楽家、児玉好雄が歌い20万枚売れたと言われている。同名の映画「無情の夢」(日活)が封切られ、この曲の流行に輪を掛けた。
 どれも、わが家にあったSP盤。團さんが酒場の片隅で歌い、功なり名をあげた流行作曲家との珍しい出会いに、忘れられない人だったと書かれている。
 36年間、40歳から76歳を超えて、1847回も掲載された、「パイプのけむり」には、毎回素晴らしいドラマが描かれ、親から子へ、子から孫へ時代を越えて多くの人々に読まれてきた。
 アサヒグラフの廃刊は、そんな多くの人々との無念な別れでもあったと思う。新星日本交響楽団の事務局長 家安さんから、早朝、「早崎さん、團先生が中国でお亡くなりになったようです」、私は夢の中に居るようにしばらく愕然としていた。「帰ってきたら、色々、まとめましょう、色々やることあるからね」浦和市文化センター小ホールでのコンサートは、私がホールに行き着いた時、会場の聴衆の最後の「花の街」の合唱が團伊玖磨先生の指揮で始まっていた。私は、舞台の上手で先生の満足そうな姿を見ていた。微笑みながら先生は、客席と舞台上のアンサンブルに交互に指示をしていた。いつも、最後のこの合唱に私は胸が熱くなる。
戦後の何もない時代を何度も病のため生死をさ迷って生きてきた。ラジオから流れる「農家のいこい」に流れるテーマ曲と團伊玖磨先生の「花の街」は、私の応援歌でもあった。洒落たメロディーは、暗い時代に私にだけではなく多くの人のぎすぎすした心を慰撫したと思ってる。
「僕、これから日本経済新聞社に行くんだけど、時間あったら東京まで付き合ってくれない」
私は、その時、先生珍しい事仰るなあと内心思っていた。車の中で何を話していたか余り記憶にないが、久しぶりに先生に團伊玖磨作品館建てましょう」私の思っていたことを口に出していたと思う。
日本経済新聞社の玄関で先生と左右に分かれ、とぼとぼと神田駅に向かったことだけを覚えている。それが、私が見た新聞社の扉の向こうに消えた團伊玖磨という偉大な作曲家の後ろ姿だった。
ふと、種田山頭火の 「うしろすたのしぐれていくか」自嘲的な句だが、この句を何処かで見つけると、この10年前の状況が思い浮かぶ。

「生病老死、愛別離苦ほ、人の世の定めです。親しんで下さったみなさん、それでは、さようなら」と、「パイプのけむり」に残された先生の最後の筆に私は自問自答する、

「先生、終わっていませんよ。音楽と著書があるかぎり、世の人々は、何時までも先生を忘れやしませんよ」と一人つぶやいている。(早崎日出太)

   日出太の下手な綴方・詩作・もろもろのエッセイ目次
  トップ頁 作成:2013/02/23 (土) 19:00:14/修正:2013/03/26 (火) 20:16:39