No 年月日 タイトル 掲載誌・新聞 解説・写真・図版
006 20090403 音楽の窓「愛馬新軍歌と叔父のこと 二木絃三のうた物語「めんこい子馬」あの部

私の叔父は、重慶で2キロほどの先に蒋介石が率いる中国軍と闘っていました。8月16日、斥候がやってきて「日本は負けたから退却だ」と言ってきたそうです。叔父は、砲兵部隊だったそうですから、重い大砲等の重機を運んでいたのでそれを運ぶ為の、沢山のと一緒だったということです。
叔父は、馬の鬣(たてがみ)を撫でながら「日本は負けてしまった、だから君たちともお別れだ、君たちは自由にどこかに行きなさい」と泣きながら言ったそうです。その時、馬はハラハラと涙を流して退却する叔父たちを小高い丘の上から、いつまでも見送ったそうです。世界各地で行われた戦のために農耕馬まで戦地に送られました。この状況の馬との別れは、激烈な戦いを共に過ごした利口な馬たちは軍隊の中で家族だったに違いないのです。叔父は、終戦後帰還した時、腕に皮がぶら下がっている痩さらばえた状態は極端なことを云えば骨と皮でした。

叔父は、長い間テレビや映画で戦争の物語やニュースは、絶対に見ませんでした。私は、その頃、叔父の家族と新宿淀橋池の下の長屋に一緒に住んでいましたからコンバット」のような戦争のテレビを見ていると黙ってスィッチを切られました。叔父は、すでに亡くなっていますが、多くの部下を失くし自分が生き残っていることに強い罪悪感があったようです。仏壇の過去帳には、毎日の日付の頁に部下の戒名と名前が書き込まれて真っくろでした。

叔父は、父の呉服屋の小憎さんで徳さんと呼ばれていました。母から「徳さんは、臆病者だから良く戦争に行けたね」と笑っていました。

母の言葉には理由がありました。夜、必ず父のところにその日、一日の商売の成果報告に来るようでした。或る晩「徳ドンを驚かせてやろう」と母が家の廊下の暗闇にお店のショウウィンドウに飾る裸のマネキン人形を立て掛けて置いたそうです。仕事から帰った叔父は、暗闇にじっと立っている裸体の女性を見て腰を抜かしたそうです。「あの徳ドンが、敵が一杯いる所に良く居られるものだね。夜なんか暗闇で怖いだろうね」母は、そんな話を私に聴かせてくれました。叔父は「真っ暗闇の深夜、農民ゲリラが何時音も立てずに背後から忍んで来るかと恐怖で発狂しそうだった」と、語っていました。

四谷の今でもある「釘の日本一の問屋さん釘万」、落語家の柳家金語楼昔々亭桃太郎(実弟)や漫画家の杉浦幸雄、俳優の山村聡等が得意先だったそうですから、この頃の芸能人の世界には明るかったのではないでしょうか。私の父も筑前琵琶謡曲日本舞踊などをやっていたようですから、父が、叔父に得意先を紹介したのかも知れないと今になると思うのです。

そんなこんなで私も父の交際範囲が原因で3,4歳頃から寄席歌舞伎宝塚歌劇団、芝居映画琵琶舞踊等多くの日本文化を享受し、ヴァイオリンやピアノや日本舞踊までも一流の演奏家や舞踊家などの家に連れて行かれ習わせようとしたのですが、父の意向に反して、私は芸事は向かないと最後まで抵抗し、工学博士になりたいと云い続けました。その頃は、世の中全てが軍国主義一辺倒でしから子供たちは誰も軍人になると異口同音に応えていた時代でした。

昭和15年、5歳の時「戦争が始まる、日本は負け東京は火の海になるだろう、家族は全員助からないかもしれないから」と一人滋賀安土に疎開をさせられました。「特急つばめ」の展望車に乗せてやるから」と云う父の甘言に乗せられて、ついに、私の独り立ちが始まったのです。ちょうど、桜が咲き始めた4月の中ごろでした。観音寺山安土山が山裾を重ねる場所に松源院弘法大師堂が有り、そこに預けられたのです。東海道本線が通っていて、安土山裾まで琵琶湖の波がひたひたと寄せていました。幼時から都会に住んでいた少年にとって、花ざかりの安土は桃源郷に見えましたこれら安土でのドラマは別項で述べることにしましょう戦争は、人だけではなくあの賢い馬たちをも不幸にしたことを日本人は認識しなければなりません。安土のお寺に置去りにされ、それから私の怒涛のような人生のスタートでした。

Wikipedia 軍馬 コンバット 野砲大砲 特急「つばめ」小史 重慶 蒋介石
織田信長 安土城郭資料館 県立安土城考古博物館 安土城天主信長の館 近江八幡市安土町 聡見寺
オフィシャル 安土城郭資料館Of 安土城考古博物館Of 安土城天主信長館Of 近江八幡市安土町Of 安土城跡Of
   日出太の下手な綴方・詩作・もろもろのエッセイ目次
  トップ頁   作成:2013/02/23 (土) 19:00:14/修正:2013/03/29 (金) 6:04:04 クリック       Of:オフィシャルサイト