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010 2009.7.22 鐘の鳴る丘 ラジオ連続放送790回

 私は、この歌を始めて聞いた時は12歳になっていました。5歳の時ちょうど戦争が始まる2年前、父親からもうすぐアメリカと戦争が始まる東京は爆弾で家族が生き残れるかどうか判らない。
 全員死んだら血が絶えてしまうからと滋賀県安土村安土山のお寺に預けられました。安土城
 その時父は、これが今生の別れに成るかもしれないからと特急ツバメの展望車」に乗せてくれたのです。今でもまざまざと覚えているのは、シジミのみそ汁がぬるくて生臭かったことです。
 あくる日から他人の家で全く異なった生活、夜は一人で本堂の片隅で寝る生活が始まり全員家族が東京から無事に引き上げたのが私が小学生入学の年でした。
 この歌を聴くとその時代、東京に出ると上野の地下道に垢で汚れボロボロの学生服や国民服を着た子供たちが屯していた事を思い出します。
 そして、通りかかると靴をみがくから金をくれと寄って来て恐怖を覚えたことを思い出します。
 このドラマで少年たちの更生に力を出した人が多々いらっしゃったとものの本で読み、就職が無くて上野でドヤ街やニコヨン生活をしたことが蘇ってきます。
                    この時代の歌は、私たちの時代の人間にとっては生死の境の歌でした。祖父母、両親を亡くし、兄を亡くし、兄弟妹姉を亡くし、東京大空襲では隅田川に亡くなった人たちの遺体で埋まったと聞きました。戦争は何処に居ても悲惨です。東京大空襲・戦災資料センター
 どこかの国の独裁者の映像を見ると、日本のあの時代を彷彿とします。戦争は、絶対にやってはいけません。
                                       孫子の代、玄孫の代、未来永劫戦争をしてはいけません。とんがり帽子の時計台を口ずさむとあの薄汚れて食べ物をねだっていた子供たちは今や70歳を超えてどのような生活をされているだろうか幸せになっていたらいいのにと思わずには居られません。                                                                何十年か前にこの時計台を見に行きました。その時も胸がいっぱいになり、その家に向かって「よく、生きていたね」と心の中でつぶやいたことを思い出します。
 青い空が何処までも透明で、丘の上にすっきりと立っていたように覚えています。写真を撮ったのをと探したのですが見当たりませんので見つけたらお送りしたいです。

投稿: 早崎日出太 2009年7月22日 (水) 23時19分

   日出太の下手な綴方・詩作・もろもろのエッセイ目次
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