n大石芳野全仕事
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「悲しみのソビエト 民族を歩く」 修正:11/06/01 (水) 12:02:48
NO 年月日 タイトル 出版社 価格 ISDN 寸法 備考
16 1991.06.10 悲しみのソビエト 講談社 \1,165 4-06-205400-0 C0095 195×135×26 クリック
      
■紛争の民族をあるいて1ソ連と日本をつなぐもの1−
 揺れ続けるソ連をあるいて、最も興味深かったのは、自分のことや生活のこと、地域のこと、そして国のことや政治、経済にいたるまで、実に真剣に訴えかけてきた人びとの姿だ。
 それまで私のなかにあったソ連のイメージは、冷徹な、閉ざされた管理社会というものだった。しかし、一九九〇年に合計三カ月かけて十一の共和国を回りながら出合った人びとは、それまでのつぶやきを、生々しい叫び声に変えていた。ペレストロイカを、強く実感させるものがあった。
 半面、各地で事態は複雑な曲折をたどっていた。とりわけ、バルト海の三つの連邦共和国では、独立をめぐつてモスクワの中央政府との間で、すでに対立が深まりつつあったのだ。
 世界の目が湾岸戦争に向いていた一九九一年一月、ソ連軍はついにリトアニアとラトビアに戦車を繰り出し、市民に発砲して流血の惨事を招いた。
 テレビの画像や新聞の記事に接しながら、私はとうとうここまで来たのかと、独り言を吐いた。
 同じような事態が、すでにソ連南部のコーカサスや中央アジアで起こつていたからである。
 1990年1月、アゼルバイジャンの首都バクーで起きた「バクー事件」は、アルメニアとアゼルバイジャンの両民族の対立をきっかけに介入しようとしたソ連軍が、市民に銃口を向けて火を放った。地方選挙を目前にした事件だった。さらに5月には、アルメニアでも似たような惨事が起きた。ロシア帝国からの独立を祝う行事が初めて行われようとしていたその前日で、やはり選挙を間近にしたときだった。
 こうした動きは、市民の力が増大したことで、体制の歪みが表面化したから起きたのだといえる。七十余年間の共産党一党独裁体制には、そもそも無理があった。ペレストロイカ政策はだからこそ生まれたのだろう。
No タイトル 写真 掲載頁 備考
悲しみのソビエト―民族を歩く 10
1 第一章 アルメニアの少年 日本語を話す少年
1 12 書き掛け項目
2 アラムとの出合い 1 16
3 会話集を作った中学生 1 20
4 トルコによる「大虐毅」 1 24
5 イスラム教とキリスト教の反目 30
6 アルメニア人ゲリラ兵士・サムエル 32
革命の犠牲となったアルメニア 35
8 アルメニアのパルチザン「フエダィン」 40
9 軍がアルメニア市民に発砲=五月こ十七日事件 1 44
10 内戦が狂わせた家族の平和 47
11 フエディンの総司令部にのりこむ 52
12 アルメニア人民軍隊長アラモ 1 54
13 たび重なる領土割譲の悲劇  57
13 ナゴルノ・カラパフ事件は全民族に対する見せしめだ 61
14 ねじ伏せられた民主化運動 65
15 仕組まれた民族紛争  68
16 紛争解決の努力  73
17 根深い反目の構図  1 76
18 国営企業の女性経営者 79
19 女性上位のアルメニア  1 81
20 グラニュシュとの再会  84
21 誰かが自分の利益のために仕組んだ事件 87
22 アルメニアの母  90
23 スムガイト事件の惨劇  94
24 遺された五人の孫と…‥ 97
25 私たちは羊のようにやられっ放しではなかった  101
26 事件は真っ昼間の三時から始まった 1 103
27 乱暴され、絨毯に巻かれ、火をつけられて……  1 106
28 虐毅を伝えるビデオテープ 108
29 第二章 アゼルバイジャン 翻弄されし民 ソ連軍は正真正銘の殺し屋集団だ 1 111
30 バクー事件はアゼルバイジャンのスムガイト事件だった 115
31 社会主義ソ連の中のイスラム教徒 116
32 戒厳令下の首都バクー 1 121
33 官僚とマフィアに操られた民族紛争 124
34 一枚のリング・スカーフ  128
35 公正で民主的な選挙を 
130
36 汚染の進むカスピ海
1 134
37 アルメニア人が仕組んだアルメニア人虐毅事件
1 138
38 暴動の二日後に記念碑が建ったという奇妙な事実 
141
38 アルメニアから逃げてきたアゼルバイジャン難民 
1 144
40 歴史の波に勧弄される人びと 
1 148
41 スムガイトも公害の街  1 155
42 民族間題はスターリン時代の負の遺産
158
43 権カが人心を操作するとき、不幸な歴史が始まる 
1 161
44 冷静な判断こそが民族紛争を解決する 1 166
45 第三章 グルジア スターリンを越えて 豊鏡の地、波乱の地 2 173
46 ペレストロイカで民族間題が噴出 図1 180
47 ソ連軍の敵は武器を待たない市民 185
48 グルジア鎮圧はモスクワの命令  1 189
48 スターリンの故郷でも進む民主化 1 191
50 グルジア人とユダヤ人  196
51 アフガン戦争は犯罪だった  200
52 アフガン帰還兵の心の傷  203
53 四章 ウズベク 強制移住の犠牲者たち 深刻な塩害に悩むアラル海沿岸住民
207
54 「静かに消えていった方がいい」と大臣はいった
1 211
55 タタール人というだけで 
215
56 着の身着のままの強制移住 1 215
57 数奇な運命の糸に操られて
219
58 ナチ協カの汚名を着せられたタタール人
1 221
59 強削移住させられたウズベクの朝鮮人   1 226
60 「私たちの故郷はウズベクです」
230
61 流れ着いた先はタシケント
図1 233
62 祖国の言葉も文化も失って……
237
63 コップの奪いあいが民族紛争に発展
1 239
64 見捨てられた民トルコ・メスヘティア人 
245
65 政府の失策が民族対立を激化させた  
1 247
66 経済的安定が民族紛争の解決とペレストロイカの成功を導く 2 252
67 第五章 アフガン・シンドローム 間達った戦争 1 257
68 アフガン帰還兵の明と暗   262
69 帰らなかったニコライ  1 265
70 実態のつかめぬ戦争 
1 271
71 誰にも必要のない戦争  1 275
72 戦争が遺した傷跡  281
73 第六章 モスクワ 苦悩と煩悶の時代に 長蛇の行列、深刻な物不足の首都モスクワ
285
74 「リトアニア共和国民以外には売りません」 1 288
75 独立気運のたかまるバルト三国  図1 292
76 高水準の故術と食料品不足のアンバランス 293
77 民族の未来を見つめる学生たち 1 298
78 ロシア人の昔悩 301
79 スターリンの民族政策はイスラムの集団性を手本にしている 306
80 「足手まとい」の思想が民族間題を歪めた 310
81 国家存亡の足元に火をつけた各地の民族独立運動 1 314
82 家なき老女の悲痛な叫び 1 318
83 当たり前の権利を主張しはじめた人びと 323
84 紛争の民族をあるいて ー ソ連と日本をつなぐもの 326
−ロシア・ソ連関係年表
 Wikipediaより
モスクワスモーレンスクレニングラード=サンクトペテルベルグ/エストニアラトビアウクライナキエフドニエックチェルノブイリアルメニアアゼルバイジャングルジアウズベクタシケントフェルガナキルギスキエフの大門/
展覧会の絵
追跡ムソルグスキー「展覧会の絵」:團伊玖磨 NHK取材班
アートディレクター:中村博彦/デザイナー:薄井美穂子/プリンティングディレクター:小野重記/写真・文章:大石芳野